遊戯場か戦場か

以下の文章は、私の主観であることを予め断っておこう。


一度も放銃に対して恐怖を感じたことが無い、という人。
これは「麻雀」をしていても、「闘牌」の域に至っていない。


ここで言う「麻雀」とは、賭けるものが無い、純粋なゲームとしての麻雀だ。
失うものが無ければこそ、ラスに直結する放銃に恐怖を感じない。


これが良い悪いという訳ではない。
麻雀の土壌の違いだ。


そして放銃を怖いと感じている人、または怖いと感じたことのある人。
これは失うもののある「闘牌」をしている証拠だ。


そしてこの時、恐怖の度合いは失うもが大きい程、大きくなっていくものだ。

恐怖を呑む

今現在、放銃に対して恐怖を感じている人。
ラスは少ないものの、トップも少なくはないだろうか?


放銃を恐れる心を持つことは重要である。
しかし、これは「負けないこと」を育てても、「勝つこと」を育むことは決してない。


これは麻雀に限らないが、「負けないこと」と「勝つこと」は必ずしも一致しないからだ。


麻雀には、時として必ず勝負しなければならない場面が存在する。
その場面でも放銃を恐れるのは「慎重」では無く「臆病」になってしまう。


恐怖を呑み、乗り越えることで初めて闘牌に打ち勝つ土台が築かれるのだ。

基準

この放銃という行為とどう向き合っていけば良いのか?


それにはまず、他家の攻めに対して攻め返す基準を、自ら設定しておくことだ。
(私の大まかな基準は「不敗のための守り 其の2」に記しているのでご参照あれ)


この基準は、確固たる確率論、統計論で決めることが理想だが、一番重要なのは自分で納得できるものにすることだ。


そして、いざ攻め返す時が来た時、放銃という恐怖を呑み、その基準に従い、


この手牌・状況ならば放銃しても悔い無し


という覚悟を決めること。これが肝要だ。


この判断基準は、小銭を賭けた時、大金を賭けた時、大会決勝の時、大げさに言えば全てを賭けた時でも変わらない。
それが理想的なのは言うまでもない。


とは言っても、この基準は麻雀の勝ち負けに直結するもの。
それ故に、一朝一夕では構築できないし、身に付けるにはさらに年月がかかる。


だからと言ってその努力を怠ってはならない。
強者と呼ばれる人たちは、自らの基準を作り、それに殉じているからこそ強者と呼ばれているのだ。


その域に近づくためには、これは避けて通れぬ道なのである。